「貴女はゴミでもなければ、最底辺でもないよ。大切な○○」
今となっては、私と同じような環境で育った女の子が沢山いることを知っている。
小学校の四年生の私。私はいつも居間の片隅で自分のことを木製の棚だと思っていた。思うようにしていた。
母を愛していたからだと思う。
私が笑ったり、動いたりするだけで、父はきっと不機嫌になり怒鳴り散らし、そして、母が私の為に何かを言ってくれようとすると、父が母をなぐったりする。
だから、私は親子三人で居間にいるときは、木製の棚として、ただそこに存在していた。
父が居酒屋の経営に失敗して、心がダメになったのは私が小学校三年生の時。
母は昼間はスーバーのレジをうち、夜はパンの加工工場で働いていた。
とにかく、貧乏だった。
家族三人で居間とダイニングしかないワンエルといわれる独身OLの住むような部屋に住み、
いつも家にいる父は、私が小学校から帰ると、イチイチ干渉しだした。
暴力こそ振るわれなかったが、言葉ではいつも殴られた。
やがて、私は父の前では動けない、そして、話せもしない「いらない子」になっていった。
それは父が背中に絵を入れてからはもっと加速した。
六年生の夏休み前に、家に帰ると、母が泣いている声がして、あわてて家にはいると、
体の彼方此方に絵を描いたおじさん達が四人いて、父もいれて五人で母をおさえつけて、エッチなことをしていた。
私は叫んだ。泣いてもいただろう。でも父は行為に夢中になったままで私の事も、母の気持ちも見ようとはしなかった。
そこからの悲しみ。
母は、左脚と右腕の肩のほうに其々、竜と般若の絵を入れられた。
母はもう、父に何もいわなくなり、父は余計に頭がおかしくなった。
一三歳の冬、私は父の子供を妊娠した。
それから一五歳の春には母を犯していた四人の男達に同じことをされ、誰の子供かわからない子供ができた。
誰かが教えてくれていた、ある宗教では堕胎は殺人であり、許されない。と。
だから、私は今でも私を許していない。
私は存在理由などない、間違った存在なのだ。
母の自殺も止められず、父の失踪も全く悲しくなかった。
二十歳の私は誰かに愛される事などない存在のはずだ。
父が消えたあと、私は僅かの服と三千五百四十一円を持ち、家を出た。
誰もいない石狩の家をでて、札幌に出てみた。
ススキノの夜を徘徊すれば、自分を滅ぼしてくれる人に会える気がしたから。
私を罰して。私を消滅させて。
ネオンと人込みと七月のぬるい風の中で私の何かが叫んでいた。
「貴女はゴミでもなければ、最底辺でもないよ。大切な○○」
ねえ、私の宝ものみたいな話をこれから聞いてくれる?
代わりに泣いてくれる?
代わりに逝ってくれる?
代わりに叫んでくれる?
続く